実感を伴う
先日とある雑誌(standard journal)から査読の依頼が来て、(誰かの手伝いではなく)はじめて自分で査読をする事になった。その論文はある意味新しいポイントを指摘しているのだが、残念ながらデータがその主張を十分にサポートしていないので、その辺を厳しく指摘してrejectと言うコメントを付けて送り返した。
先週その論文に対するeditorからのdecisionのメールが来たので読んでみると、もう一人のrefreeもかなり厳しいコメントを付けてrejectをしていて、最終的な意見が分かれる事が無くて一安心したのだが、、もう一人のrefreeのコメントを見てみると、自分がminorに挙げたポイントをrejectの理由として指摘していた。一方自分がmajorに挙げたポイントはもう一人のrefreeからはmajorの最後に少し指摘しているだけであった。
自分が論文を通す側に立っているだけの時は、全てのrefreeのコメントに対して何とか答えるだけで精一杯なのであまり気がつかなかったのだが、いざ自分がrefreeをしてみると、自分の問題意識と他の人の問題意識の違いに結構驚かされる。
と言うことは、自分が論文を書くときには、かなり色々な立場から自分の論文をcriticizeして、それらに対して十分なdefenceが出来るような書き方をする必要があると言うことだ。これまでも色々な人に言われて頭では分かってはいたものの、実際にrefreeをやってみて改めて実感した。
じゃあ、なんで体験して実感を伴わないとダメなんだろうか?という疑問が沸いてきた。
頭で思っているだけでは何でダメなんだろうか?
我々の分野に近い事で考えてみると、task setと言う考え方がある。task setと言うのは何かのルールに従って行動するルールの事だ。このtask setに関しては面白い現象があって、以前やった行動のルールは新しいルールに変更された直後は以前のルールに行動が引きずられてしまう。この現象をこれをtask set inertiaと呼ぶのだが(Alport 1994)、ここからもう少し考えを拡張してみると、以前の行動のルールの残存と新しいルールへの適応と言う二つの問題が出てくる。実験的には決められた数個のルールしか使えないので、全く新しいルールを常に持ち込むのは非常に厳しいが、実際の生活においては新しいルール上での行動を求められる事が良くある。実生活での適応のように常に新しいルールに適応しようとした時、実際にそのルールを経験をしないとダメなんだろうか?
もし、これが本当だとすると、人間のflexibilityと言うのは結構限定的なんだなーとも思った。じゃあこのflexibilityを増強するにはどうしたら良いのだろうか?